トゥールスレン収容所とキリングフィールド
前回はイオンモールで牛丼を食べたところまで
ちなみに牛丼はおそらくパックで日本から送られてきたものを使っているので、味は同じでしたよ。
頼んでもないのに つゆだくだく でしたけど。
まぁともあれトゥクトゥクを拾って次の目的地へ。
トゥールスレン虐殺犯罪博物館(S21)
クメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジアに設置された、無実犯の収容所です。
2年9ヶ月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人(現在身元が分かっているのは7人)のみだそうです。
一度入ったのもは二度と生きて出てこれない収容所です。
学生料金で半額の3ドルで入場できます。
オーディオプレイヤーが全員に配布され、日本語でガイドを聞くことができます。
この収容所はもともと、高校だった場所。
笑いの絶えない高校の教室が拷問を加える場所になりました。
そもそもクメール・ルージュ(ポルポト派)とは、民主カンプチア時代にカンボジア共産党とポルポトによる独裁体制を支えた勢力の総称で、極左武装勢力。
〜簡単に流れだけ。
1970年アメリカに支持されたロン・ノルがクーデターを起こし王政を廃止。
クメール共和国建国。
その直後、アメリカ軍と南ベトナム軍が南ベトナム民族解放戦線を追撃するためにカンボジアに侵攻。クチトンネルはこの南ベトナム民族解放戦線が作り上げたものでしたよね。)
daigakuseisekaiissyuu.hatenablog.jp
空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内難民化したようです。
この事態を受けて、シハヌーク国王は、亡命先の北京で、反米・反ロン・ノル諸派に共闘を呼びかけた。
つまり、1953年に反シハヌークだったクメール・ルージュとシハヌーク国王が合流したのです。
これを機に国王を慕う農民層がクメール・ルージュを支持するようになりました。
1975年クメール・ルージュがプノンペンを占領し、ロン・ノルのクメール共和国が崩壊。
人々はクメール・ルージュを盛大に迎えました。
「やっと混乱の時代が終わる」
実際は始まりにすぎなかったのです。
つまり、富の余剰がなく、階級支配のない、狩猟採集社会を目指した。(人類の初期の社会形態)
その実現のために都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させた。
彼らを都市部から農村に連行する際は、「空襲から疎開するため」「3日で帰ってくるから」と行って連行したようです。(当然帰って来れない)
2回に分けて都市部から農村部へ大移動が行われました。
しかし方法論として資本主義に関する文明の利器を全て一掃したため、非常に貧しい生活を強いられた。
国民の多くは飢餓や栄養失調、過労死に追い込まれました。
そこで、ポルポトは思ったのです。
「革命が成功したのに、飢餓が進むのはおかしい。誰か反革命分子がいるからに違いない」と。
ポルポトは医師や教師を含む知識人層をこのトゥールスレンに連行しました。
この時、クメール・ルージュはこういう風に言ったそうです。
「医師や教師が居たら名乗り出て欲しい。今、国が危ない。君たちの力が必要だ。」
名乗り出た人々は農村部から知らないところへ連行されることになった。
メガネをかけている人は賢いから連行。
手が柔らかい人も連行。など過激さは増していきました。〜
現在ではカンボジアの子供達の修学旅行?のルートにもなっているみたいですね。
トゥールスレン収容所内で拷問を実際に加えた教室は撮影禁止でした。
中は拷問を加えるベッドがありました。床には血痕で黒くなっていました。
あくまでここは「拷問を加える施設」であって、「大量虐殺が行われた場所」ではありません。(当然、拷問の途中で死んでしまうこともあったそうです)
上の写真は、手を後で縛られ吊し上げられ、頭に血が上り気絶させるという拷問が行われた場所。
高校だった頃は登って遊べる遊具でした。
ここで拷問が加えられ、「自白」させられるのです。
ありもしない事実を「自白」するまで拷問が加えられます。
自白調書を取り終わると殺害します。
「ここに足を運んだ人は、誰かにこのことを伝えていくことが大切」
オーディオガイドはそうやって締めていました。
キリングフィールドという大量虐殺が行われた場所にも行くことにしました。
トゥールスレン収容所から15キロほど。
当時は目隠しされて運ばれたそう。
慰霊塔。
ブログの最後に中を紹介します。
ここは450体の遺体が見つかった場所。
こういった場所が至る所にあったようです。
現在でも、骨が地面から出てくることがあるようです。
鎮魂の祈りを込めたミサンガ。
ここは首のない166体の遺体が見つかった場所。
これはキリングツリー(殺しの木)と呼ばれ、赤ちゃんがこの木に叩きつてられて殺された。
将来、家族を失った子供が復讐しないよう、赤ちゃんまでもが殺害の対象でした。
ポルポトは「雑草を取り除くには根っこから」と言っていたそうです。
ちなみに、ここでは殺しに銃は使われませんでした。
理由は銃弾が高いから。
その代わり、安価で繰り返し使える、鎌、斧、ハンマーなどが使われたそうです。
この菩提樹はマジックツリーと呼ばれています。
この木にスピーガーが吊るされ、反響を利用して、近くの村に叫び声などが聞こえないようにしていたそうです。
最後は、慰霊塔。
こういったキリングフィールドはここだけではなくて何箇所もあるようです。
ポルポト政権下での死者数は統計上かなりのばらつきがあるので、あくまで参考値ですが、800万人の人口のうち200万人が殺されたというデータもあるそうです。
(PopulationPyramid.net is a part of Btlas (a data visualization website).)
街を見渡してもお年寄りの方が本当に少ないです。
これが30年前の話です。
40年前の話です(ご指摘ありがとうございました。正しくは40年前です)